弘法大師御歳三十一歳
《 日本から唐へ 》
空海は、延暦二十三年(804)4月9日に入唐へ出発が決定しました
第十六次遣唐使船への乗船が決まり、摂津の住吉大社へ乗員と共に集結しました。
実家の佐伯家や母方の阿刀家などの親族縁者が見守る中
入唐への旅立ちを果たします
空海は、延暦二十三年(804)4月9日に難波ノ津より渡唐す。
延暦二十三年7月6日に第十六次遣唐使船は
最終寄港地の平戸の田子の浦を出発し、
8月10日に『赤岸鎮』と云う
台湾海峡西方の唐の地に漂着した。
今の福建省霞浦県福寧湾の内湾奥にある赤岸村の浅瀬であります。
《赤岸鎮より唐の首都 長安へ》
遣唐使の一行は、赤岸鎮の役人に素性が分からにまま 当地に留められた為
空海は唐の皇帝に自分達の素性を皇帝に当てて書簡を書きます。
《 下記の文は空海による唐の皇帝への書簡(漢文)
の一部分の書き下し文です。》
〚 賀能啓ス。高山澹黙ナレドモ、禽獣労ヲ告ゲズシテ投リ帰キ、
深水言ハザレドモ、魚龍倦ムコトヲ憚ラズシテ逐ヒ赴ク。
故ニ能ク西羌、険シキニ梯シテ垂衣ノ君ニ貢シ、
南裔、深キニ航シテ刑厝ノ帝ニ献ズ。
誠ニ是レ明ラカニ艱難ノ身ヲ亡ボスコトヲ知レドモ、
然レドモ猶命ヲ徳化ノ遠ク及ブニ忘ルルナリ。
伏シテ惟レバ大唐ノ聖朝、霜露ノ均シキ攸、皇王宜シク宅トスベシ。
明王武ヲ継ギ、聖帝重ネテ興ル。九野ヲ掩頓シ、八紘ヲ牢籠ス。
是ヲ以テ我ガ日本国、常ニ風雨ノ和順ナルヲ見テ定ンデ知リヌ
中国二聖有スコとヲ。
巨棆を蒼嶺ニ刳メテ、皇華ヲ丹墀ニ摘ム。
蓬莱ノ琛ヲ執リ、崑岳ノ玉ヲ献ズ。
昔ヨリ起テ今ニ迄ルマデ、相続ヒテ絶ヘズ。
故ニ今、我ガ国主、先祖ノ貽謀ヲ顧ミテ今帝ノ徳化ヲ慕フ。
謹ンデ太政官右大弁正三品兼行越前国ノ太守、藤原朝臣賀能等を差シテ、
使ニ充テテ国信別貢等ノ物ヲ奉献ス。
賀能等、身ヲ忘レ命ヲ銜ミ、死ヲ冒シテ海ニ入ル。
既ニ本涯ヲ辞シ、中途ニ及ブ比ニ、暴雨帆ヲ穿チ、戕風柁ヲ折ル。
高波漢ニ沃ギ、短舟裔々タリ。
凱風朝ニ扇ゲバ、肝ヲ耽羅ノ狼心ニ摧ク。
北気タニ発レバ、胆を留求ノ虎性二失フ。
猛風ニ頻蹙シテ、葬ヲ鼈口ニ待ツ。
驚汰ニ攅眉シテ、宅ヲ鯨腹ニ占ム。
浪ニ随テ昇沈シ、風ニ任セテ南北ス。
波上ニ掣々タルコト、二月有余。水尽キ人疲レ、海長ク陸遠シ。
虚ヲ飛ブニ翼ヲ脱シ、水ヲ泳グニ鰭ヲ殺ス、何ゾ喩ト為スニ足ラン哉。
僅カニ八月ノ初日ニ、乍チニ雲峯ヲ見テ欣悦極罔ス。
赤子ノ母ヲ得タルニ過ギ、早苗ノ霖ニ遇ヘルニ越エタリ。
賀能等万タビ死波ヲ冒シテ、再ビ生日ヲ見ル。
是レ則チ聖徳ノ致ス所ニシテ、我ガ力ノ能クスル所ニ非ズ。
又大唐ノ日本ニ遇スルコト、八狄雲ノゴトクニ会ヒテ高台ニ膝歩シ、
七戎霧ノゴトクニ合ヒテ魏闕ニ稽顙スト云フト雖モ、
而モ我ガ国ノ使二於テハ
殊私曲ゲ成シテ待スルニ上客ヲ以テス。
面リ龍顔ニ対シテ自ラ鸞綸ヲ承ル。佳問栄寵已ニ望ノ外ニ過ギタリ。
夫ノ璅々タル諸蕃ト豈ニ同日ニシテ論ズベケンヤ。
又竹符銅契ハ本姧詐ニ備フ。世淳ク、人質ナルトキハ文契何ゾ用イン。
是ノ故ニ我ガ国淳樸ヨリ已降、常ニ好隣ヲ事トス。
献ズル所ノ信物、印書ヲ用イズ。遣スル所ノ使人、姧偽有ルコト無シ。
其ノ風ヲ相襲イデ今ニ盡クルコト無シ。
加以ズ使乎ノ人ハ必ズ腹心ヲ択ブ。
任ズル二腹心ヲ以テスレバ、何ゾ更二契ヲ用イン
載籍ノ伝フル所、東方ニ国有リ、其ノ人懇直ニシテ礼義ノ郷、
君子ノ国トイフハ蓋シ此ガ為カ。
然ルニ今、州使責ムルニ文書ヲ以テシ、彼ノ腹心ヲ疑フ。
船ノ上ヲ撿括シテ公私ヲ計ヘ数フ。
斯レ乃チ、理、法令二合匕、事、道理ヲ得ラリ。
官吏ノ道、実ニ是レ然ルベシ。
然リト雖モ遠人乍チニ到テ途ニ触レテ憂多シ。
海中ノ愁猶胸臆ニ委レリ。徳酒ノ味未ダ心腹ニ飽カズ。
率然タル禁制、手足厝キドコロ無シ。
又建中以往ノ入朝ノ使ノ船ハ、直ニ楊蘇ニ着ヒテ漂蕩ノ苦シミ無シ。
州県ノ諸司、慰労スルコト慇懃ナリ。
左右、使ニ任セテ船ノ物ヲ撿ベズ。
今ハ則チ、事、昔ト異ナリ、遇スルコト望ト疎ソカナリ。
底下ノ愚人、竊ニ驚恨ヲ懐ク。
伏シテ願ハクハ遠キヲ柔クルノ恵ヲ垂レ
隣ヲ好スルノ義ヲ顧ミテ
其ノ習俗ヲ縦ニシテ常ノ風ヲ怪マザレ。
然レバ則チ涓々タル百蛮、流水ト与ンジテ舜海ニ朝宗シ、
喁々タル万服、葵藿ト将ンジテ以テ堯日ニ引領セン。
風ニ順フ人ハ甘心シテ逼湊シ、腥キヲ逐フ蟻ハ意ニ悦ンデ駢羅タラン。
今、常習ノ小願ニ任ヘズ。
奉啓不宣。謹ンデ言ス。日本国留学ノ沙門空海啓ス。
空海、才能聞コヘズ、言行取ルトコロ無シ。
但ダ雪中ニ肱ヲ枕トシ、雲峯ニ菜ヲ喫フコトノミヲ知ル。
時ニ人ニ乏シキニ逢テ留学ノ末ニ簉ハル。
限ルニ廿年ヲ以テシ、尋ヌルに一乗ヲ以テス。
任重ク人弱クシテ夙夜ニ陰ヲ惜シム。
今、使ニ随テ入京スルコトヲ許サレザルコトヲ承ル。
理、須ク左右スベシ。更ニ求ムルトコロ無ケン。
然リト雖モ居諸駐ラズ、歳、我ト与ナラズ。
何ゾ厚ク国家ノ馮ヲ荷テ、空シク矢ノ如クナルノ序ヲ擲ツコトヲ得ンヤ。
是ノ故ニ其ノ留滞ヲ歎ヒテ早ク京ニ達スルコトヲ貪ル。
伏シテ惟レバ中丞閣下、徳、天心ニ簡バレ、仁、遠近ニ普シ。
老弱袖ヲ連ネテ徳ヲ頌スルコト路ニ溢レ、
男女手ヲ携ヘテ功ヲ詠ズルコト耳二盈ツ。
外ニハ俗風ヲ示シ、内ニハ真道ヲ淳クス。
伏シテ願ハクバ彼ノ弘道ヲ顧ミテ、入京スルコトヲ得セシメヨ。
然レバ則チ早ク名徳ヲ尋ネ、速カニ所志ヲ遂ゲン。
今、陋願ノ至ニ任ヘズ。敢ヘテ視聴ヲ塵シテ伏シテ深ク戦越ス。
謹ンデ奉啓以聞。謹ンデ啓ス。〛
長安の都から迎えの勅使が福州にきた。
乗員120名中、船員はこのまま船に残り船の修理や船荷などの整理に当る。
ところが留学生空海の名が長安へ行く人の名簿はありませんでした。
長安への出発の人員の選抜の権限は州の勅使にありました。
空海はすぐにまた閻済美にあてて
《下記の文は空海による上申書の一部分の書き下し文です。》
空海の文章の才におどろいた、役人 閻済美が
空海を福州に留め自分の配下として留めるためでありました。
唐の首都長安へ着いたのは、延暦二十三年(804)の末であった。
唐の元号は(貞元二十年)唐朝は第十二代皇帝(徳宗皇帝)の時代です。
遣唐使で十六次遣唐使を率いて来られた賀能卿は遣唐使引率の任を終え
明けて延暦24年(永貞元年)正月、大使らは国使としての新年朝賀を
無事に終え、長安滞在わずか30日にして、2月11日帰途につく。
この記事へのコメントはありません。